DEVILMAN crybaby~湯浅エモーショナリズムの極致~

f:id:kazuma0919:20180912004246j:plain出典://twitter.com/devilmancrybaby/status/965896993741488130

 

先日、私の家に滞在した大学の後輩と話をした。主たる内容は邦画と、昨今のアニメ全般についての事。2人とも若干趣味の方向は違えどいわゆる筋金入りのオタクであり、夜遅くまで滔々とその手の話を繰り広げるのは非常に楽しかった(周囲に理解者が少ないというのもある)。

 

そんな中で、湯浅政明の実質的な最新作『DEVILMAN crybaby』の話題になった。湯浅政明は二人とも好きなクリエイターであり、『夜明け告げるルーのうた』は2人で劇場にて観賞した。私があのデビルマンどうだった?と聞けば、まだ観ていない~と言う。どうやらそもそも脚本を担当した大河内一楼コードギアス』シリーズ)にピンと来ていないというか、彼の作劇に興味を見出せなかったらしいのが理由だという。とりあえず、『DEVILMAN crybaby』(以下CB)は私が加入しているNETFLIXで1話から、何夜かに分けて観てもらった。結果としては、やはり「う~ん」という返答が。いろいろ文句を聞いたが「作画の完成度、脚本の練度から言ってもこれが湯浅作品だと認識するのはしんどい」という感想が印象的だった。

 

私はこの作品を良作だと捉えているが、当作が他の湯浅作品と比べると相当に世間からの風当たりが強い作品であるということはネットの風潮・個人評等から理解している(まあ天才・永井豪の代表作を世界のユアサが監督するとなれば過剰に期待しない方が無理だし!)。また、そんな自分も9話~最終話を観るまでは作品の方向性が掴めず、ずっと首を傾げながら眺めていたのも確かであった。逆になぜ自分は最後の最後でこの新生デビルマンの物語に心打たれたのか。そこから本作の魅力に迫っていきたい。また、ここではあえて永井豪の原作より「湯浅政明の作家性」について取り上げていく。なんで今更?の感もあるが、ネトフリでの配信当時より今の方がかなり冷静な分析が出来ると踏んでのところもある。にしてもちょっと遅いけど。

 

湯浅政明の作家性・世界VS~の構図

 

私にとって、湯浅政明はとりあえず「新作が出たら観る」クリエイターの一人である。程度はもう、熱狂的なファンと言って良いくらいには彼の作風を愛している。

湯浅本人曰く「鑑賞者が見て一発で気が狂うような作画」にダイナミックな構図。驚きの絶えない展開、センスの良い音楽。だがそれらはあくまで要素であって本質ではなく、これらピースが最高に作用するだけの骨太のプロット、脚本が最高なのである。

 

彼の名を一躍知らしめるきっかけとなった作品『マインド・ゲーム』に代表されるように、毎回主人公に据えられるのは非常に無垢的な存在。ひょんなことから事件に巻き込まれ、臨死体験を経たりして(この作品では実際一度死ぬんですけども)アニメならではの気持ちい~い動きをフル動員させながらの空前絶後の大冒険、その先に主人公が「自分の殻を一歩抜け出す」ところに最大のカタルシスを置いて物語は幕を閉じる。イニシエーションの含みや若干の説教臭さすら感じるところながら、まこと鮮やかな娯楽活劇として纏め上げるその手腕に私は初見時で心底惚れ込んだ。

 

この作品だけが特異で辺鄙だという言われ方をすることはままあるが、実はここにみられるのは徹底されたイズムであると断言できる。例えば、柔軟なサブカル性と言うべき湯浅政明の技量を世に知らしめた作品『四畳半神話大系』がそうだ。森実登美彦の原作小説は「可能性という言葉を無制限に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」とのテーマに則り冴えない大学生がSF(すこしふしぎ)な並行世界上どこでも四苦八苦する~というストーリーで完結していたが、アニメ化にあたってはそこから一歩踏み出した華ある展開と画力(えぢから)でがっしり視聴者の心を掴んだ。不可能性の中の可能性を手繰って生きていこう、みたいな。

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思えば、言わずと知れた傑作『ピンポン』にもそのイズムが色濃い。

恵まれない環境を経験、外界からの遮断を自ら望んですらいる少年と、彼に干渉して世界の見方を刷新しようとする存在=いわば世界そのもの。そしてこの構図の逆転。物語が進み個と個の物語が衝突、擦りあっていくにつれ熱いブロマンスが発生し、彼を取り巻く環境や人々に大きく作用していく。高い人気を誇る漫画原作を持つ作品であるため一部では不平の声も買ったようだが、松本大洋の力強いタッチをアニメーションへの落とし込む際の違和感のなさといい、個人的にはこの上なく誠実なアプローチで完成させられた傑作だと思っている。

 

■crybaby、壮大な片想いの物語

 

さて、本題のCB。この作品でピックアップされるのは、「人間の感情を持たない悪魔の初恋とその末路」である。これは原作にあった展開とはいえ、若干趣を違えた解釈がなされていたなぁと思った。実質第二の主人公である了(サタン)が自らの記憶を封印し人間として生き、心優しい少年・明(後のデビルマン)に淡い恋心を抱く。彼の計略もあって人類が滅亡状態を迎えた後、了は避けられない運命を明に告げ、彼に共闘を申し出る。だがサタン=了を許せない明は本格的に彼と対峙していくことになるのだがーーー。

 

原作の本筋のストーリーは、主人公である明が「全部失敗する」物語である。しかしCBでは、「人が思いを繋ぐ意味」というテーマに着地した最終回となっている。悪魔と同化しながら人間の心を失わなかったデビルマンら(悪魔人間たち)は、原作とは違って衝動的に人を殺したりするも、最終的に自らの愛に気づき、人を守る側につけば“人間”であるという再定義がなされていた。

ここで、明という存在そのものに一方通行の思いを募らせた了に対し、彼が人は人の形を失えど、懸命に駆けるからこそ価値ある存在であるのだ」という事実を自らが戦う様を以て示す。この異形のヒーロー・デビルマンの姿が真に胸を打つのだ(実写版『デビルマン』で微妙に上手いこと扱われなかった陸上モチーフを”リレー”として引用してきたやり口にもグッとくる)。結局、デビルマン=明は力尽きて死に行くが、ここで了は自身の全て、世界そのものであった明の存在と自らの深い感情を知るーーー。

 

心に敏感であって常に涙を流していた明に、無感情だった了が興味を覚えて…のくだりもよくよく考えたらひたすらエモい。サタン=了の物語は正に「世界と対峙した無垢な存在」譚の真髄だった。また最終回に用意されたカタルシスに心震わされるのはいつものことながら、そこにはあえてキャラクターに寄らない「残酷性」が確かにあった。湯浅政明×デビルマンならではの美しい殺伐に圧倒的切なさを付与したその手管・試みに、私はまんまと泣かされてしまったのである。原作とは大きく違ったディティールのキャラクターデザインや色調も作品が持つ儚さを殊更に強調して見せるようで、全くデビルマンぽくないけどちゃんと観たらデビルマンだ!と思わせる塩梅で良かった。

 

普段の湯浅作品と比べてアニメの動きが甘いとか、作画がどうとかいう意見もたくさん耳にしたしそれは紛れもなく作品的短所であると思う。が、冒頭にも直結するラストの了の啼泣に私が心を打たれたのは確かであった。時空を越えたデビルマンが歴史上の偉人・犯罪者と会遇して彼らの人生を大いに狂わせていくぶっ飛んだシークエンスも湯浅政明の手で映像化して欲しかったところだけど、綺麗にまとまっていたのでこれ以上とかく言うのは高望みである気もする(大河内一楼の脚本力で見事にセーブされたというべきか)。

 

相当な話題作であったために多くの人の眼に留まった作品だとは思うが、まだ未観賞の人がいれば是非一度観ていただきたい。(終)