九井諒子を語らば〜⑴意外とカルトな漫画神〜

私が20幾年の人生の中で「読んで衝撃を受けた書籍」は漫画を含めて三冊である。この数が一般的に多いか少ないかは微妙なところだけど、とりあえずぱっと思い浮かぶのは三冊(そしてその全部がSF・ファンタジーのジャンル)。

 

ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(日本放送出版協会  2008年)、アルカジイ・ストルガツキイ他・著の『ストーカー』 (ハヤカワ文庫SF  1983年)、そして九井諒子の短編集『竜の学校は山の上』(イースト・プレス  2011年)。どれもフィクション形式の読み物ながら、本来目にしたくないはずのもののディティールに触れずにはいられない…とか、構成の巧みさに目から致死量の鱗を落としたりとちょっと壮絶な体験をした。

正に「文字に殺される!」という感覚があって。

 

 

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

竜の学校は山の上 九井諒子作品集

 

上記の2冊は小説だけど、最後の九井諒子の本は漫画作品。九井諒子、、、正に数ある漫画家の中でもトップクラスの構成能力の持ち主だと思うし、下手すればもうすでにJ・R・R・トールキンくらいは知られていてもおかしくないはずと考えるが、漫画界の中でも若…干カルトなところに収まっているのが不思議です。もちろん超人気作家ではあるんですけど。

 

そんな彼女の作品と出会ったのは高校生の頃、作中の一遍『進学天使』からであった。

 

◼︎鮮やかな普遍性

 

高校の頃、私はよく寝れない時にネットサーフィンに暮れていた。とにかくチープな心霊動画(本気で怖くない程度のもの)やら、web漫画を観漁っていた夜。そんな中、Twitterで話題になっていたとある漫画を目にする。それが『進学天使』という作品だった。

『進学天使』竜の学校は山の上 より/九井諒子 | Matogrosso

キュートで無駄のない稜線、ひらけた構図で世界の様子をぐっと見せる緻密な描写、細やかに人物の感情を拾ってみせる台詞運び。そして怒涛の切なさに胸が痛む、普遍的な苦さを帯びた着地。私自身ちょうど進路と向きあっていたセンシティブな時期でもあり、とりあえずこの人の他の作品を!と思って短編集を手にすることに。それがこの『竜の学校は山の上』で。夢中になって読み耽った記憶がある。

 

◼︎“少し不思議”な性質、九井作品の読感

 

SFを“science fiction”「空想科学」ではなく、「少し不思議」の定義で広めたのはこの人だったろうか。とにかく登場人物がちょっとだけ不思議な世界奇妙な出来事と対峙して自身の見解を改めるor周囲との関係性を見直していくというのがほとんどの物語に共通するベクトルになっていて、そこに重くない程度で含まれる風刺もにくい。正に人が少し不思議だと感じるもの=未経験の事象と邂逅する時に生ずるドラマがこの上なく端的&エモーショナルに読者の目に届くところに天才の感性とテクニックを見る。

 

九井諒子の代表作と言うべき長編『ダンジョン飯KADOKAWA / エンターブレイン  2015年)もほとんどこの方法論が適用される形で物語が成立させられているのだけれど、良くも悪くも(と言って良いと思うが)このSF邂逅譚とカルチャーギャップ劇が淡々と繰り返されて行くので、ややスローペースな展開は人を選ぶところもある。私は大好きですけどね。

 

ちょっとここだけでは語り足りないものがあるので、続きは⑵でお話しします。語りたい!(つづく)