溢れ来る異物感〜宝石の国6巻の面白さ

昨夜から漫画『宝石の国』を読み返していたんですが、やっぱ連載ものというのはどこかでターニングポイントというものが存在していることに気づかされるんだなと。

 

重要な事実が明かされるとか、または〇〇巻で流れが変わってしまう!とか。宝石の国だと活動場面とキャラ相関がガラッと変わる7〜8巻あたりだと思うのだけど、個人的にはその前哨とも言うべき6巻がすごく好きだ。

 

 

◼︎あらすじ

 

月人と金剛先生との関係に疑念を抱いたフォスは、ひとりで先生の秘密を探ろうとしていたが、シンシャに手伝って欲しいと打診する。が、「楽しくない」ことと、その先の展望がないために協力はできないと断られてしまう。その後、コンビを組むことになったフォスとゴーストの前に月人が襲来。一瞬のスキをつかれ、フォスは月人の矢に撃ちぬかれてしまった。

出典:http://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000039583

 

この作品以外、市川春子の短編集『虫と歌』(講談社  2009年)などを読むと、作者のフェチズムの領域であろう「人ならざる人」というモチーフが多数登場する。研究対象として生かされ、個人の寂しさを埋めるために育てられ、また人に惹かれて出現する亜人達。また彼らの限定的な生は極めて儚く、純粋でいじらしい。

 

 

それは『宝石の国』の面白さ・興味深い点と共通していて、鉱物がたまたま“人型”の生命体として活動することになってしまった悲哀、彼らが繰り広げる(時に高い温度で迫る)ドラマの波が白眉であるというところに通じている。作者が描きたいものの一貫性を見るところだ。

 

悠久の時間の中、寄せては返す悲喜こもごもの波。個々の感情、思惑がクロスしていくことによってその波が次第に高さを増し読者に迫る様は仄かなアブノーマルテイストも相まって非常に居たたまれなく、また魅力的である。

 

だが、今までは主人公の熔解や身体を構成するパーツの欠損、仲間を失う痛みなどの緩やかな殺伐場面(←緩やか、というのは登場人物に決定的な死が存在しないため)の事件は視認できたもの、本巻ではっきりと主人公が暴走、本作で共感性の頼み綱だった“人の姿”を失うという局面になる(映画『AKIRA』の鉄雄変態シーンのような代わり映えに、突如流れる不穏な空気)。

 

この時は仲間の助けで何とか普通の形態を取り戻すものの、その後の戦いで月人の矢がフォスを襲い、個のアイデンティティに関わる劇的な事件とともに単行本は次へとつづく〜。

 

少し前の戦いのくだりで、フォスに涙ながらで「みんなと  一緒に戦うのはいいね」と言わせたあとの凄惨な展開!!作者は読者層の精神硬度を試しているに違いない。

一体、彼らの意識はどこに宿っているのだろうか。そもそも彼らは、金剛先生と呼ばれる存在は何者であるのか。

 

より明確になる宝石らの異物感を携えて6巻は終わるが、ここの描写をどこまでアニメが再現するかちょっと見ものです。

 

…いやいや、二期の制作は未定だっけか。何でもありませーん!(おわり)