九井諒子を語らば〜⑵ 諦観のないストーリー
「九井諒子を語らば」、前回は九井諒子作品との出会いについて述べて終わってしまったので、今回はもう少し内容に突っ込んで書きます。前に⑴を書いたのが10本ブログを公開してからだったので、今回も⑴から10本の区切りで。
と、いうわけで誰にも頼まれてないけどやりたいからやる企画「九井諒子を語らば」のパート2です。まずはおすすめの短編集『竜のかわいい七つの子』(エンターブレイン、2012年)の紹介から。
『竜のかわいい七つの子』は九井がさまざまな題材、表現に挑戦したというのが伺える名著なので是非読んでほしい一冊です。
個人的オススメは『人魚禁漁区』と『金なし白祿』。前者はまるで短編映画を見るような舞台設定、構図の転換と自然なキャラクター描写が魅力な「未知」との邂逅譚で、後者はまんが日本昔ばなしで扱われるような画仙の物語が筆ペンのようなタッチで綴られていて面白い。“墨”といったモチーフの特徴をきちっと活かしてくるあたりにも感動だ。
この作品に収録の各短編もそうだが、やっぱ九井先生の作品は、常に世界に対して懐疑的な主人公(『ダンジョン飯』でいう女エルフ、マルシルの役回り)に新しい価値観が拓かれる展開の妙が魅力的。
◼︎この世に存在するものは
最近、短編集『竜の学校は山の上』の表題作を読み返したのだが、とある作品に作者の想いというか矜持がしっかり滲んでいると、そのように思った。それは正に表題作『竜の学校は山の上』に。
つうか、この本を手に取るたび毎回思うんだけど…
やっぱめっちゃ面白いな !?!?(驚嘆)
取り乱しました。話を続けます。
『竜の学校は山の上』 というのは、文字通り”竜”が生物として生息する架空の日本が舞台の一編である。当世界では、竜の多くが絶滅危惧種に指定されて保護・飼育されている。しかしそのプロジェクトによる経済的損失も大きく、利用性という側面からみれば圧倒的に低い。他の動物・家畜等と比べて圧倒的に邪魔、不要な存在とも言える。
(生態系の上で地球にいなくていい生き物などいないはずだが、あくまで文明社会における利便性という点からの判断ということ。また、食物連鎖の点においても本来竜自体が架空の生物だとのことでその枠からはみ出てしまっている~というメタ仕込みもあるのだろう。何となくパラドックスを感じる部分だが、寓話として認識できる点と諸々のリアリティで読み流せるところではある)
日本唯一の竜学部がある大学の学生になった主人公は、とあるサークル「竜研究会」の勧誘を受ける。竜をこよなく愛するサークルの部長・カノハシはどうにかして様々な面から竜の存在に意味を見出そうとしているが、ぶっちゃけ難しい。そこで彼女は竜に騎乗しての宣伝を企画するというのだが…。
物語の締めに、カノハシの台詞でこんなことが言及されている。
世の中にはなーーー
二つのものしかないっ
役に立つものと
これから役に立つかもしれないもの だっ
そして、台詞はこう続いていく。
なくしてしまったものを
あれは役に立たなかったってことは言えるけど
それは所詮 狐の葡萄
だから簡単に捨てちゃいけないんだ
でも役に立たないと諦めたら
それでは捨ててしまうのと
何も変わらないだろ
何にでも価値を見出し、場合に応じて使う・その機が来るまで待つことで全てが役に立つものになるというオープンな思考。九井自身の、優しさにも似た本音なのだろう。
またそこには、我々の「文明」というエゴから生まれたツールの元で道具化してしまった自然の物悲しさすらほんのり感じさせるのだが、物語的な湿度よりもある種共存に対しての前向きな姿勢を感じる提起にちょっとした楽しさを覚えるところ。
思えば、同作に収録の『帰郷』『魔王城問題』『代紺山の嫁探し』は逆にそれぞれ必要とされなくなったもの・忘れられた存在を巡る物語でもある。超個人的な感想になってしまうが、
ある事物の価値と意味を探すとき、そこに慎重さの必要性が伴うことを常に問うている姿勢 が好きだ。
◼︎不屈の精神・ダンジョン飯イズム
思い返せば、長編『ダンジョン飯』にだってそのイズムが垣間見えていた。
一見グロテスクだったり見るからに不味そうだったり…そもそも捕獲や退治が困難なため、加工・調理なんて想像がつかないクリーチャーたち。言わばそんな魔物たちも知識と技術、工夫次第で美味しいご飯やおかずへと姿を変える。
『ダンジョン飯』のライオス(←彼の場合ちょっとネジが飛んではいるけど)のような、言わば諦観のない思考の前にはもはや不可能の文字は無いのだという。なんと前向きで元気の出るテーマ性であろうか。
まあ、これだけでは九井諒子の全てを網羅した説明ができたとは言えないので、また折を見てご紹介。今度は物語や作画のディティールのこととか書きたい。
(了)