万引き家族〜正しくなかった彼らのその先に

先日、ブックオフでこの本を目に留め、ほとんど何も考えずにレジへ向かいました。

 

万引き家族【映画小説化作品】

 

万引き家族』(是枝裕和監督、2018年)は、私が今年観た中でもぶっちぎりに印象を残した一作。しかし、読みながらどうにも煮え切らないところがあって本書を購入。これには小説版について、こんな言及がなされたツイートを多数見つけたからで。

 

 

読んだ。パンフレットを買うよりもこちらを読んだ方がおそらく補完性が高い(パンフレットを買ってもないのに言うのはよくないが…)。非常に質の高いオーディオコメンタリー、という印象。率直に言って、買ってよかった。

 

引用元:

https://twitter.com/b2949/status/1006208009586917376

 

小説としての出来が良いかといえば決してそうではない。ただ、映像を前提とした副読本として威力を発揮する。もっとも映画としての余白を「説明的に」全て埋めてしまうため、この本を読むか否か、勧めていいのかどうか、その辺りの判断は難しいと感じられた。

 

引用元:

https://twitter.com/b2949/status/1006211249519058945

 

この二つは肉欲 肉欲企画(https://twitter.com/b2949)さんのtweetより。物々しいハンドルネームながら、そんないかがわしい方ではないのでご安心を。この他にも、内容について興味を惹かれるようなツイート  鑑賞後に読めば内容がすんなり飲み込めるとの推薦を多数受けたので気になってはいたのだ。

 

以下は、映画についての私の感想です。

 

 

万引き家族・レビュー

 


映画「万引き家族」本予告編

 

 

鑑賞中はただただ没頭して絶句。柔らかい印象の画面とは違い、どの立場にも寄らないドライな物語に舌を巻く。

 

〇〇だけど〇〇〜という一筋縄では行かない状況の織り込み方が凄まじく、この手管で複雑な群像劇が成立させられている点に拍手。

 言わば、入れ子構造。例えば劇中で家族として暮らす人たちはそれぞれ周囲の人間から騙し盗り、不法な手立てで生活を助くように生きている。しかし、彼ら・彼女らの境遇を聞けば彼らも人から利用され、略取され見捨てられてきたことが察せられる。その点に関してひとつ印象的だったのは、一家の誰もが暴力を振るう描写が無かったということだ。あくまで彼らは傷ついた存在であり(そこに相互利用の関係が絡めど)互いに寄り添うことで心傷を癒す、までいかずともそれぞれの傷を意識しない生活が出来たのだろう、という解釈。

 

■リアル、アンリアルの狭間にある生々しさ

 

まぁ問題提起の要素がこれでもかと詰め込まれているために所々かなりフィクショナルな色を帯びているのだけれど、一方向からの価値観押し付けを感じる域には全く無いという点に是枝節の巧さを見る。

 

劇中の貧困描写・血が繋がらなくとも疑似家族として打算込みで寄り添う人物らの造形が絶妙だ。この不安定な社会状況では今後誰がこんな状況に陥ってもおかしくないというのをひしひし痛感させられるところがミソ。

 

社会どうこう以外でも、地震列島である日本で大規模な災害が立て続けに発生、家族と離れ離れになった後に見ず知らずの他人との共同生活を強いられるかもしれない。そういった考えまで想起させてしまうディティールの生々しさが、何より見事だった。

 

麩と白滝のすき焼き。

 

全体的に煤けた家屋に家具、ホコリやダニの匂いが布団の下に常駐しているような室内風景。小汚くも、その生活痕が温かいとさえ思える風呂場の色合い。

 

招かれざる客を前に、汚らしい感じでミカンに齧り付く樹木希林の表情とかちょっと忘れ難い。この「一見天然ぽいけど時にじっとりと感情を露わにし、ケロッと小狡さを覗かせるしたたかさ」が物語・画面に強さを与えていたように思う。

 

■鑑賞者の価値観を揺らがせる作劇   そこに愛はあったのか


どのみちこの映画の登場人物達の行いはどう考えても許されないことばかりで、観ているうちにちょっとフラストレーションが溜まったりもするのだが、同時に終盤のとあるやりとりで一般的な“家族”という共同体が持つ歪さすらも浮き彫りにしていて驚いた。

 

まあ、終盤いきなり登場する池脇千鶴高良健吾のあまりにテンプレ役人然とした佇まいや、「産まなきゃ母親になれない」との毒めいた発言(道義的にも間違っている)は若…干鼻につくところだったけど、後者に関しては「❝人として格が低い❞と認識した相手と対峙したとき、人はどんな曲論を晒してでも相手を丸め込もうとする」というのは我が人生でも多々視認してきたことだったのでそこまでの違和感は覚えず。

 

娘を誘拐された側の夫婦像との対比も相当に意地悪で考えさせる。万引き一家よりは少し充足した(この家庭にも若干の貧困が垣間見えるのも小憎い〜)経済状況が察せられるのに、その実どこにも“愛がない”と言えるほどに冷めきった家庭環境。「産みたくて産んだわけじゃない」と泣き叫ぶ母親、家族に向かって暴力を振るう父親。それぞれの父・母とは真反対な性質が観客の神経を逆撫でるも、いや、でも万引き一家の方も十分悪い事してたし…という堂々巡りの中に放り込まれていく。

 

ここで、一見同情の価値がないような人たちにも、酌量されるべき点というのは何か…?という問いの存在に気づかされる。これが本作の白眉だろう。

 

結果として法に反し、社会からは疎まれることになりながらも、彼らは寒空の下で凍える幼い少女の命を救ったのではなかったか。そしてそれを可能にしたのは、彼らが持つ正しくなさだつたという現実。

 
万引き家族が正しくなかったから出来た、唯一の「正しいこと」とその末路が明かされて物語は終わる。

 

ラストで再び外に出た少女、その視線の先に何があったのかいつまでも想像してしまう。彼女は、この邂逅で家庭の姿は一つじゃないことを確かに知ったのだ。フィクションの中の人物に関してこう述べるのは妙だが、彼女がこの経験を基に健やかな人生を送ることを願ってやまない。

 

■して、小説版の内容は…

 

ぶっちゃけ、小説版を手にした他の方が「映画としての余白を「説明的に」全て埋めてしまう」と言ったように、そこは映像として把握するだけでよかったなぁ、と思うところも多数あった。作品としては映画の方が圧倒的に優れてはいるのだけれど、それでも画面の奥にいたキャラクターの無言・会話の間の裏にどのような心境があったのかが理解できたという点では良い「解説本」だった気がする。

 

特にラスト、祥太自身の口から「わざとつかまった」ことが明かされる場面、ここの心情描写と、この後のの様子が綴られているところは“優しい改変”とすら思えるほどに、映画と小説で全く味わい方が違った。今現在、映画に関する記憶は端々が朧げなので、また本編を再見したときに照らし合わせてみたい。

 

(完)