ジョジョ7部 永遠!!その血の運命と荒木先生のアクティブな物語
こんばんは。アベニティです。
始まりましたね。ジョジョ5部アニメ。まるでお洒落とジョジョ愛の粋を尽くしたような特報が流れた頃から大いに期待を寄せておりました。
私の家にはテレビが無いので10日のネトフリ配信を待つこととなりますが、それまではハンカチを嚙みちぎりながら待ち続けたいと思います。
ハンカチ何枚になるかな…。
そしてこの折、SNSで「ジョジョ何部が一番面白いか大喜利」みたいなのがあって(大抵全ての部が面白い的なオチがつく)、6部以降手つかずだったPart.7『スティール・ボール・ラン』が気になっていたのをふと思い出し読んでみることに。
- ■SBR開催!!Part.7の舞台は19世紀末のアメリカ
- ■黄金の精神はいつも どこにでも
- ■作者の言い訳風にも思える本作。「だが、それが…」
- ■挑戦の漫画家 荒木飛呂彦という人間
- ■※(比較的)ライトなジョジョラーである筆者の今後
■SBR開催!!Part.7の舞台は19世紀末のアメリカ
今回のジョジョは、はじめ「人生の落伍者」的な立ち位置にある。かつて天才ジョッキーとの名声を欲しいがままにし、有頂天になっていた彼の名はジョニィ・ジョースター。
しかしある日、彼は自身の欺瞞から来る行為で銃弾を受けて下半身不随となってしまう。今まで彼の才能を取り巻いていた人々はジョニィを見捨て、彼は無力感と孤独の中で自暴自棄になる。
そんな彼がジャイロ・ツェペリと名乗る青年と出会い、その際に彼の不思議な力によって足を少しでも動かせたことから彼と行動を共にすることを決意、ふたりで大規模な大陸縦断レース『スティール・ボール・ラン』に参加、奇妙な冒険を経て成長していく。
また、父親と折り合いが良くない私のような人間からすると7部はとても身につまされるパートであったし、ジョニィの勝利を祈る度に我が身のことも重なって辛かった。
物語としては多少のツッコミどころもある。大規模なレースで力あるジョッキーが集っているはずなのに、ほうぼうで謀略による道草を食わされている主人公二人がランキング上位に食い込めているのはどういう了見だよ!とか、どうにでも調理できるような美味しいキャラクターが顔出しのみで出番を終えていくとことか。ただ、ジョジョ特有の大きなテーマに飲まれてそれらの不満は潰えてしまった。
■黄金の精神はいつも どこにでも
6部でのプッチ神父の所業以降、その様相を全く違えた世界。たとえ世界がまるごと変わってもジョジョはジョジョであり続けるのだし、どんな苦境にも耐え、気高く生き抜かんとする“黄金の精神”を獲得するのだ。
そこには「彼がジョジョであるから」ということ以外明確な理由が存在しないのだが、長くシリーズを追ってきたファンにとってはこの上ない喜びだ。
■作者の言い訳風にも思える本作。「だが、それが…」
7部はまた、プラスであれマイナスであれ結局自分は自分でしかいられないのだ、という作者・荒木飛呂彦の開き直りとも取れた。
スタンドという概念が紹介されず、奇妙な超能力レースとしてスタートした本作。しかし中途からいつもの超能力バトルが展開、ヘンテコかつイカしたファッションのキャラクター達によるトリッキーなアクションが目白押した。そして作者の手癖で人体破壊描写を増やしてしまったためだろう、当初は「ゾンビ馬」の糸による縫合といったオカルティックな肉体治癒方法が用いられていて新しいな!と思ったが、じきに皮膚を容易に接着する「肉スプレー」なる便利ツールのスタンドをもつキャラクターが登場して既視の運びとなった。
サンドマン、ホット・パンツにウェカピポ、マジェント・マジェント。個人的に好きなキャラの多さでは本作がダントツであるのは間違いない。メインキャラクター以外のアクション・馬車の上での小競り合い等は状況の仕立てがすこぶるパワフルかつ動的で、大いに感心と尊敬を覚えながら読んだ。
前述の通り何度か騎馬での競争をほっぽってしまう展開もあって、読みながら「あれ、今読んでるの何部だっけ??」となる瞬間もざらにあった。画・構成として、トリックとしての面白さは集大成的なものがあったのだけれど、レースものとしての面白さが確保されていたかと言われてみればちょっと分からない。
ただ、それすらも「愛せる範囲」として読み手の気持ちを消化させてしまうのが荒木飛呂彦という漫画家なのかなあと思った(3部くらいまでの熱狂的なファンを除く)。理由は以下に。
■挑戦の漫画家 荒木飛呂彦という人間
荒木飛呂彦という作家は、常に挑戦の中に身を置いた職業人だと思っている。最初は怪奇小説を彷彿とさせる吸血鬼退治ものとして『ジョジョの奇妙な冒険』を描き始め、じきにそれは世代を股にかけた超能力バトルものとなっていく。
ここでスタイルは確立するが、その中でも少年達が日本のとある町でメンチを切り合うヤンキー漫画風の一幕があったり、また時にはシリーズ最大悪の息子がギャングスタを目指すピカレスクロマンを、と柔軟かつ新鮮な切り口で物語が綴られてきた。(ただ、そのどれもがファンにとって歓迎されるものであったかどうかは分からないのもまた事実である。個人的には3部、5部あたりの中盤には少し退屈を覚えたりした)。
そして、女囚脱獄ものから世界改変SFと変容して行った6部にて、全ての戦いや人物相関はリセットされることになる。この思い切りっぷりたるや。
そして7部の中途にて、掲載誌が少年ジャンプからウルトラジャンプへと変わることになる。その時について語ったインタビューを引用する。
――対象年齢の高い雑誌に移動したことで、倫理性にまつわる描写も変化していますね
40歳をこえて、倫理性にまつわる表現も描かなくちゃダメだろう、と思ったんですね。たとえば俳優・映画監督のクリント・イーストウッドも、アクションスターという枠組みにとらわれずに活動しています。ぼくもターゲットを若い読者だけに限定していたら、作品が窮屈になるんじゃないかな、と思ったんですね。
あと『スティール・ボール・ラン』では、ストーリーから絵柄まで含めたところで、より古典的な方向へいこうと思っています。登場人物の血統や歴史ももとに戻っていますし、能力もシンプルにしようと心がけています。それから、最近はCGの利用が増えていますが、ぼくのマンガではあえて使わないようにしたりとか。
前面にはださない程度に哲学を盛りこみたいと思っていますけど、そのあたりの変化が「週刊少年ジャンプ」を出た理由なのかも知れません。
引用:
https://web.archive.org/web/20071217021014/http://plaza.bunka.go.jp/museum/meister/manga/vol3/
ここまで、割と作者が本気で楽しんでやっていたというのは作品を読めば分かる。が、そこにはどこまで自分を保てるのか、何が自分のオリジナリティであるのかといった葛藤も存在したことと思う。
ジョジョという“パートごとに全く違う毛色、舞台の物語”を描くことによって、一貫性への挑戦〜何が荒木飛呂彦のテイストなのか〜というのを模索し続けたのだという仮説。この点で、生きる術・能力を得ていかんともがいた主人公・ジョニィと作者の姿が少し重なるように思えるのだ。
故にジョニィ・ジョースターには今までのキャラクター、主人公以上の迫真性があったように感じたし、彼の言動全てが切実だった。
終盤、巨大な悪が果てる前にとあるシンボリックなモチーフを7部の世界観に放り込んで来る。3部でジョースターエジプトツアー御一行様をいいだけ苦しめたスタンド、ザ・ワールドもといその能力を持つディオである。
この件に関して連載当時は(否寄りの)賛否両論があったようだが、それもまた「自分、不器用ですから…」じゃないけど、そこにはジョジョと言えばこれしかない!と言った絶対的な確信とほんの少しの諦めがあったと思うのだ。
そう言った、良い悪いを超えた思い切りの良さは決して投げやりな判断からくるものではない。あくまで彼自身の、作品との戦いの結果なのだ…と考えてしまうのはファンの好意的な解釈に過ぎないのだろうか。
■※(比較的)ライトなジョジョラーである筆者の今後
これだけ熱を込め、一ファンの妄想に過ぎないかもしれんフォローをかましてしまうほどジョジョに思いを馳せることになった私なのだから、じきに珍作と名高い8部にも手を出すのだろうな。
その部を読み終えた時、全く違うことを口にしていたら誰かスリッパで殴打して下さい。
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(おしまい)