『吉原炎上』女の生き様!何においても人間の話

吉原炎上 [DVD]


友人のプッシュを受けて鑑賞。五社英雄の作品といえば極道の妻たちの有名すぎるテーマソングにちょっと聞き覚えがあったくらいで、ほぼほぼ初の五社作品でした。

鑑賞してなるほど、これはなかなかに見所の多い作品であったと思った。

以下、あらすじです。

その昔、東京浅草の一隅に、吉原遊廓と呼ばれる歓楽の別天地があった。そこでは借金に縛られた娘たちが六年の年季が明けるまで、春を売っていた--。久乃がここ吉原の“中梅楼”に遊女として売られてきたのは十八歳の春。明治の末のことである。〈春の章〉中梅楼には花魁の筆頭とも言うべき、お職の九重をはじめ、二番太天の吉里、三番太天の小花に次いで、菊川などさまざまな遊女がそれぞれ艶を競っていた。お職の身にありながら、宮田という学生と抜きさしならない仲になっていた九重は久乃に不思議な魅力を感じていた。九重の下につき見習いをはじめた久乃にやがて、娼妓営業の鑑札が下り、若汐という源氏名を貰った。ところが初見世の時、若汐は突然客のもとを飛び出し、裸足で逃げだしてしまった。そして、店のものに追われる途中、救世軍で娼妓の自由廃業運動を展開中の古島信輔と出会う。 

 

出典:吉原炎上 : 作品情報 - 映画.com

 

江戸からこの頃までの遊郭というのは、貧困による身売りが通例だった時代で社会的にも真っ当な職業として認められていたものだった。昭和の中ごろでも、花魁が親族にいること・吉原で太夫だったことを周囲に自慢すると、皆が「そんな偉い人なの」と驚いたというエピソードからもその名残が伺えたりもする。

しかし、客に春を売る道しか選べない生き方(家に戻れば追い返され、もしくは女工という過酷な労働が待つ)を嘆く花魁たちもまた少なくなかった、というベクトルで物語は進んでいく。主人公・上田久乃(名取裕子)の周囲の変化で表されていく、世俗の荒んだ空気感が濃厚。

その中であくまで凛と、目標に向かって歩む久乃。おはぐろどぶの堀の中、遊郭で華々しく咲かんとする決意が観る側の涙を誘う。

 

■各章のヒロインたち

個人的にグッと来たのは、春の章と冬の章のヒロイン、九重(二宮さよ子)と菊川(かたせ梨乃)ですかね。

九重は、久乃の色気ある先輩格である。久乃からいい匂いがしている(若干レズビアン気質?)として気に入っており、厳しく久乃に指導をしながら色の手管を教え込む。そして逆に久乃の持ち前のテクニックに逝かされてしまうという、ちょっとサービスな役まわりだった。濃厚な絡みのシーンではその四肢を投げ出して見せるのも大胆だ(噂によると、監督と助監督が実演して演技指導したらしい!どこまでしたかはわからないけど、想像すると絵面が凄い)。

ドラマパートへの真摯な向き合い方も非常に目に心地よかった。自身を「年増女郎」と自嘲的に呼びながらも、客である学生に結婚の話を持ちかけられて堪えきれずに涙をこぼす場面の演技が好きだ。年季が明けたあとの人生を考え、寂しさを募らせるシーンの表情が総じて忘れがたい。(周囲より年上ということもあっての)姉御肌を表現してか、やや抑えの演技で魅せる。そこから来る情緒、たまに人間的な弱さを見せる場面がひたすらに丁寧で上手かった。章の最後で吉原を去る時の後ろ姿、とても美しく哀しい。

演じた二宮さよ子はその気高い印象からか、TVドラマ『空飛ぶ鉄腕美女ワンダーウーマンの日本語吹き替えも担当していたというのが納得。アメコミ原作!!

 

かたせ梨乃の菊川は、どんなときにも明るさを失わんとする人物ながら常に周りに出し抜かれて生きてきた女である。要領の悪さで中梅楼を出された後は品川へと籍を変え、物語の終盤では最下層の店が並ぶ羅生門河岸の長屋女郎にまで身を堕とす。自分より若い女に亭主を奪われてもいたりもする。

その鬱憤からか客をぞんざいに扱うこともあり、彼女の唯一の幸せといえば妹分のお春と客の想いが遂げられること〜と、なんとも厳しい人生を歩んできたのだ!とその設定からすでに染み入ってしまう。

加えて、かたせ自身の役へのアプローチが凄まじかった。剛気なところを見せながらも、我慢の限界を感じた時の涙、泣き声があまりに生々しい。しかしそこにある強かさ、人間的な魅力は消えることなく彼女自身の厚みとして観客に突きつけられるのだ。このバランスが非常に巧妙で、そこが他の三季のヒロインとは一線を画していた点だった。胸も美貌もすごいんだけど、元来持ち得る経験値?人間的な厚みが役を成功させていたと思う。やっぱあの目と口元、やや酒枯れしたような声音がひたすら最高。何だかんだ言って、久乃に対し真に人間的なアドバイスをくれていたのは菊川だけだったような気もするし、真に久乃の人生の先輩といえば彼女だったのかもしれない。

 

ただ、あれだけいろいろと人の生死に関わるまでのトラブルが発生しても、一時的にすら営業停止になるような描写がないのだからすごいっすね。やっぱ実際にもそれだけの需要を有していたということなんでしょうか。しかし、ちょっとやそっとのことでは潰えなかった吉原が、久乃が袖にした男の事故(確信犯的にも見えたけど…)であえなく炎上してしまったという点がどうにも皮肉だ。そこは人の因果には勝てなかったといったところだろうか。実際の原因として一番有力なものは、「座敷で一娼婦が揮発油で拭き清めた襦袢を火鉢にかざし、乾かそうとしたところ引火して大火が発生した」というものらしい。しかしそんな凡たるミスがあるんだろうか。どこかで作為があったんじゃないかなあ…と映画を観た後ではつい勘ぐってしまう。

明治44年のこの大火災で、吉原のほぼ全体が江戸風情はまったく焼失することとなる。再興はされるも、この大火災を契機に「廃娼運動」が盛んになっていく。

 

■大筋のストーリーは主人公の悲恋もの

久乃とTHE・清純派ロマンチストな上客である古島(根津甚八)とのロマンス、彼が楼閣を後にして歩く姿が印象的で、ああ性に溺れたり型通りの幸せに満足しない主人公との対比なんだなあ…としみじみ。

…だが、蓋を開けてみれば彼女も彼に焦がれていたことが語られて、ひとえに「両想いながら添い遂げられなかった悲恋もの」であることが分かると若干拍子抜けしてしまった。シーン間のつなぎもちょい性急だし、主人公が成り上がっていく様にももう一超え説得力が欲しいところだったかなぁ(どこぞの御曹司に見込まれた、というのはれっきとした理由かもしれないけど)。

 

■❝実在した場所❞だからこそ重い悲哀

本作の大きなテーマとしては

「恋愛感情含む人間性というのは、捨てようとして捨てられるようなものじゃない」ということなんでしょうかね。思えば四季の章の大体が遊女たちの性と愛にまつわる物語だったし。健気に幸せを掴もうとあがき、失意の底で無理心中を図った女もいた。故に主人公の逞しさ・凛とした佇まいが引き立つのだけれど、このような覚悟に身を馳せられた人物が他にどれほどいたのだろうか。若干気になるところではある。

 

そしてもう一つ、これは原作がある作品なのだというのは観賞の少し前に知った。

なんとなくの総集編感、駆け足に主人公の物語が綴られていく感じは文章→映像にした際のオミットによるものなのかなぁ…と少し思うところで。今度は元の作品もちゃんと読んでみよっと。

 

mag.japaaan.com

余談ですが、上に引用したのは在りし日の吉原遊郭の着彩写真がまとめられたサイトです。詳細がどうであったかは分かりませんが、映画の空気感というか、人がそこで本当に生活・商売に暮れているような実在感は本当に圧巻だったし、よくこれだけの規模を吉原に仕上げたなぁという感動があった。

実際の写真を見ても、「あ~そうそうこの感じ!」と納得できてしまうあたりに装飾や美術の本気度が伺える。こういう資料を目にするたびに観返したくなりそう。

 

(おしまい)