谷山浩子『まっくら森の歌』仄かなホラーと幻想の美 かつての❝恐怖❞を聴き返す夜(1)

谷山浩子ベスト 白と黒

 

みなさんは、幼少期にTV放送や音楽など、創作物にまつわる怖い思いをしたことはあるだろうか。

世にいう「トラウマ体験」というものである。

 

個人的には二つある。押井守の『イノセンス』(2003年)予告編・女の子のセクサロイドが自壊するシーンと、「みんなのうた傑作選」的なVHS(タイトル不詳)に収録にされていた『まっくら森の歌』(1985年)がそれに該当する。どっちも幼心にインパクトを残すのには充分で、ちょっと歳を取ってからもしばらくは”恐怖の経験”として思い起こされることがしばしばだった。

 『イノセンス』はまだ分かる。人に似た形が壊れて内部のギミックがむき出しになる映像は無論グロい(本当に嫌いで、ピザハットとのタイアップで広告にその絵が載っていたのを見た際には、激怒しながら「〇ね!!」を連呼して紙をぐちゃぐちゃにしていた覚えがある)。

ただ『まっくら森の歌』となると少し事情は変わってくる。ちょっと薄暗い画面の中でフクロウが飛び、動物のキャラクター達が徘徊する映像。

そう、私にとってこれらのアニメーションはさしても怖くはなかったのだ。

何より怖かったのは、その人を惑わせるような歌詞だった。

「さかなはそらに ことりは水に」

「まっくらもりのやみのなかでは きのうはあした」

「どこにあるか みんなしってる どこにあるか みんなしらない」etc...

聴く人を煙に巻く、どういうことか詳細が分からない歌詞の羅列。この不可解さが何か大変なものを暗示しているようで、その裏にある得体の知れなさに恐怖した。いろいろぐるぐる考えながら寝れなくなった日もあった。

そんな彼女の一曲を、大人になってから久しぶりに聴き返してみた、というのが今回の内容である。大して格好良くも無いけど、リベンジマッチというやつ。

 

谷山浩子の音楽性

本来個人的に谷山浩子の歌は好きだけど、得意ではない

幻想的な曲調の美しさ、ワードセレクトの丁寧さは分かるし、耳に心地いいと感じる曲もあるのだけど、自分とは全く違う感性の持ち主であるというのを明瞭に感じてしまうというのが理由の一つだ。

おそらく青春の一幕がテーマである『海の時間』に関しても、歌詞を聴いて情景は頭に浮かべられるが どこかで「自分は知り得ないような恋とか人生経験を積んできたんだろうな…」というのが明確に分かってしまって、そういう意味での切なさを感じて辛いのだ。価値観の相違でノれないとかじゃなくて、憧れてるけどその領域に辿り着けない…みたいな悔しさ。

 

■遊びの歌詞・ほんのりの猟奇性

あと、やっぱ今でも怖い曲がある。

Cotton Color

Cotton Color

 

『Cotton Color』なんかはちょっと意味不明な英語の羅列に見えて、ひっくり返して読めば「何人も男の子を殺害してきた女性と、また彼女に殺されてしまった息子についての歌」の歌詞として成立するのが分かる。曲自体はコロコロと鈴を転がすような柔らかい印象かつどこか不安を煽るようなメロディで進むが、聴く側はその話を知るまで隠された内容を知ることはない。こういった遊びの仕込まれ方に、猟奇趣味にも似たシニカルさを感じて怯えてしまうのだ。どこからかじっと見つめてくる得体の知れない存在を感じる、そんな違和感に呑まれる。

たとえ自分は思いついてもやらないだろうな…竦んでしまって厳しいだろうなと思う曲だし、彼女がどんなモチベーションで・何を思ってこの曲を作ったのかまで考え始めるとまた前述の理由で辛くなってくる。音楽や詞のアプローチ自体は面白いなあと思うんだが…。

ということで、まっくら森の歌詞全文も抜き出してみた。

ひかりの中で 見えないものが
やみの中に うかんで見える
まっくら森の やみの中では
きのうはあした まっくらクライクラ

さかなはそらに ことりは水に
タマゴがはねて かがみがうたう
まっくら森は ふしぎなところ
あさからずっと まっくらクライクラ

みみをすませば なにもきこえず
とけいを見れば さかさままわり
まっくら森は こころのめいろ
はやいはおそい まっくらクライクラ

どこにあるか みんなしってる
どこにあるか だれもしらない
まっくら森は うごきつづける
ちかくてとおい まっくらクライクラ

ちかくてとおい まっくらクライクラ

 

出典:

谷山浩子『まっくら森の歌』(1985年)

歌われているのは、まっくら森という架空の森なのだろう。

その存在は極めて曖昧で、色んなものがあべこべの形で存在している。その暗い中でも、はっきり見えるものはあると歌詞は告げる。朝からずっと暗いというのだから、時間の概念は無いのだろう…と思えば「時計は逆さままわり」とある。機器を狂わせる何かがあるのか、それとも時間が逆行しているのだろうか。

曲を聴くほど、歌詞を読むほどに霧の奥へ奥へと進んでいく感が半端では無いが、んん、もしや…?というパートを発見した。

どこにあるか、みんな知っていてみんな知らない。これは“まっくら森”を指しているようで、実は他ならぬそれぞれの自我のことではなかろうか。暗く、ものの輪郭さえはっきりしないところであぶり出されるはだかのままの精神性。思えば、「かがみがうたう」なんてそれを顕著に表しているようだ。日常的に見ているはずの自分を表す形が何か違うものを示す=鏡がうたう(謳う)、というのはかなり的確な解釈な気がする。「こころのめいろ」とはそれを受けて葛藤するメンタルの状態を示すのだろうか。

だが、そもそもまっくら森とは何を象徴しているのだろう…?疑問はやはり、幼少期の時のような堂々巡りをしていく。ただ、あの時よりも寓意的なテイストをしっかり感じられるためにより面白く思った。まあ、あれから20年近く時が過ぎているので当たり前のことではあるんだけど。

 

■でも、なんだかんだ今でも“覚えている”んですよね

自分がこの曲の細部に関して一々探るのは、やっぱり怖いからなんだろうなぁとつくづく思った。正体不明、思考が読めない物ほど興味深くて恐ろしい。

かくにも、こうして私が幼い頃から20歳を過ぎてまで聴き続けているアーティストの一人であるのは間違いないし、現に『まっくら森〜』に関してはたまに口ずさんだりする曲の一つになっている。

自分の制作の存在を知らしめるには、こういったパンチある作品を残していく必要があるということなんだろうか…。いや、自然とこんな表現が出来る人のみが芸術の世界に残っていけるということなのかも知れないな。

奥が深い。

 

まっくら森の歌

まっくら森の歌

 

(終)